西郷隆盛

言霊の備忘録:西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!Episode05

西郷隆盛ってどんな人なの?

西郷隆盛氏のプロフィール

 西郷 隆盛(さいごう たかもり)【文政10年12月7日(1828年1月23日)-明治10年(1877年)9月24日】日本の武士(薩摩藩士)・軍人・政治家。薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父・吉兵衛の名で届け出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。

 薩摩や長州など諸藩の武士で構成された部隊が官軍を編成した戊辰戦争と違い、1873年(明治6年)に制定された徴兵令による国民軍が軍隊を編成して初めての大規模な内戦である。また、1871年から1876年までの短期間ながら大日本帝国海軍に存在した海兵隊も戦闘に参加した。このほか、蒸気船(佐賀の乱には東艦・雲揚・龍驤・鳳翔の軍艦4隻、大坂丸など運送船9隻、チャーターした英米船2隻の計15隻が出動している)による迅速な行軍や電信技術なども使用されている。徴兵による鎮台兵は佐賀士族に対して善戦し、徴兵による軍隊が戊辰戦争を経験した士族とも互角に渡り合えることを示した。

 このほか、大久保利通内務卿は、佐賀士族の蹶起によって刺激された福岡県士族が呼応して暴発することを未然に防ぐために、福岡県権参事の山根秀助(福岡県士族出身)に佐賀討伐の士族の徴募を指示している。これにより福岡県士族3600人が福岡城の大手門前広場に集まり、佐賀征討の軍事行動への参加を志願。その中から500人だけを選抜して、小銃と弾薬を与えて戦線に投入している。このほか、旧小倉藩からも500人の士族が志願している。士族の徴募は、軍事上の必要性ではなく、明治維新という大変動のあおりをくって、不平と鬱屈を詰まらせている士族の熱を、政治上の必要性から吐き出させるためのものであった。

 ほか、不慣れな軍装による長距離の遠征で兵の多くが靴ずれを起こし進軍が遅れた例がある。また電信も、迅速な情報の伝達に威力を発揮したが、最初期に命令を受けた熊本鎮台への電信は佐賀を経由して伝えられたため、当然の如く命令は佐賀軍の知ることとなるなど幾つかの問題点も発生している。

 朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。

『(ウィキペディア日本語版)』『(ウィキペディア英語版)』より抜粋。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!Episode05

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,101


 みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,102


 道は決して多端なものでない。誠に簡単なものである。ただ白と黒の区別があるだけである。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,103


 道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,104


 昔から父の仇を討った人はたくさんいるが、その中でひとり曾我兄弟だけが、今になっても子どもや女性にいたるまで、知らないものがいないのは、多くの人にぬきんでて誠の心が厚いからである。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,105


 昔から、主君と臣下が共に自分は完全だと思っているような世に、よい政治が行われたという例はない。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,106


 もし西洋が本当に文明の国ならば、未開の国に対しては、慈愛の心をもって接し、懇々と説きさとし、文明開化に導くはずであろう。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,107


 物事をなすには上手下手があり、物によってはよくできる人、あまりできない人もある。そのことに動揺する人もあろうが天の道を実践するという点では上手下手もなく、できないという人もないものなのだ。だから、ひたすら道を行い、道を楽しみ、もし困難に遭い、それを乗り切ろうと思うならば、ますますその道を実践し楽しむという心を持つがいい。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,108


 物事を成そうとの意気込みを広く持つ者にとって、もっとも憂えるべきことは自分のことをのみはかり、けちで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本として、自分からそうなろうと修業をしないことだ。では、その古人を目標にするというのはどういうことですかと教えを請うと、徳をもって天下を治めた尭・舜(中国古代の伝説上の帝王)を理想とし、孔子を教師とすることだと答えられた。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,109


 物事に取り組む際、自分の思慮の浅さを心配することはない。およそ思慮というものは、黙って座り、静かに思いをめぐらしているときにすべきことである。そのようにすれば、有事のときには、十のうち八、九は実行されるものだ。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,110


 世のすべての人からけなされても落ち込まず、すべての人から褒められてもうぬぼれるな。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,111


 我が家の遺法、人知るや否や、児孫のために美田を買はず

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,112


 我が家の遺訓。それは子孫のために良い田を買わない、すなわち財産を残さないということだ。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,113


 わが家族が為すこともなく生活していられるのは、これを誰の恩と思うか。みな人民の課税から出た資のおかげである。これを思うからこそ、外出して人の顔を見るたびに自分は心苦しく思っている。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,114


 私は今、人のいうことを聞くに、いかにもっともらしく論じても、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけのことであるならば、少しも感心しない。実際に行動する人を見ると、実に立派だと感じるのである。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,115


 私はかつて東京を引き揚げたとき、弟(従道)に対して、私はこれまで少しもはかりごとをやったことがないから、跡は少しも濁ることはないだろう。それだけはよく見ておくようにと言いおいたことがある。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,116


 私は若い時から、困難という困難に遭って来たので、今はどのようなことに出会っても動揺することはない。それだけは幸せである。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,117


 われ外出するとき、路上多くの貧人に逢うが、彼らはみなあくせくして政府に税金を納めている。われは却って為すことなく安泰に生活している。これ実に痛心の至りである。

西郷隆盛の名言・格言集100選プラスα!No,118


 われらの子供で誰がもっとも愚かであるか。

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