瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)本名:瀬戸内晴美(せとうちはるみ)日本の小説家・天台宗の尼僧で京都府在住。僧位は権大僧正。1997年文化功労者で2006年文化勲章受章。1922年5月15日、徳島県徳島市塀裏町(現・中州町)の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷豊吉・コハルの次女として生まれ、体が弱く、本を読むのが好きな子供だった。後に父が従祖母・瀬戸内いとと養子縁組したため、晴美も徳島高等女学校時代に三谷から瀬戸内に改姓。1973年に出家し法名を寂聴する。戸籍上は1987年に瀬戸内寂聴と改名、氏名の変遷は三谷晴美⇒瀬戸内晴美⇒瀬戸内寂聴。
東京女子大学在学中の1943年に21歳で見合い結婚し翌年に女の子を出産、その後夫の任地北京に同行。1946年に帰国し、夫の教え子と不倫し、夫と3歳の長女を残し家を出て京都で生活。大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説『ピグマリオンの恋』を福田恆存に送る。
1950年に正式な離婚をし(長女とは後年出家後に和解したという)、東京へ行き本格的に小説家を目指し、三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。
小説家。本名晴美。大正11年5月15日、徳島市の神仏具商の家に生まれる。小学生のころから世界・日本文学全集を読破。東京女子大学国語専攻部に在学中に外務省留学生と結婚、中国の北京(ペキン)へ渡る。1946年(昭和21)長女を連れて帰国。48年夫の教え子と恋愛をし、京都へ出奔。この青年との関係は、運命の伏線のように、その後の人生の曲折ともかかわり、作家瀬戸内晴美誕生の機縁となる。その後、妻子ある作家との8年に及ぶ愛情関係をモチーフに、五欲煩悩に迷う体験から、人間に内在する暗い世界の模索を試みた私小説系列の作品を書く。
修道女を志すも、乳児を残して男性と逐電した過去の行状から、教会から拒否されたと言う。出家を志して、多くの寺院にあたるも拒否されていたが、1973年に今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とする(戸籍上の氏名は、1987年に天台寺住職となった際に瀬戸内寂聴に改名)。翌年、比叡山で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っていた。ただし通常の出家のような禁忌生活ではなく、出家後も男性と付き合い、化粧をし、酒を飲み、高級霜降り肉もたくさん食べていると自ら認めている。
■代表作『夏の終わり』(1963年):『花に問え』(1992年):『場所』(2001年)■主な受賞歴新『潮同人雑誌賞』(1956年):田村俊子賞(1961年):『女流文学賞』(1963年):『谷崎潤一郎賞』(1992年):『芸術選奨』(1996年):『野間文芸賞』(2001年):『文化勲章』(2006年):『泉鏡花文学賞』(2011年)新潮同人雑誌賞を受賞した「花芯」はその過激な内容と子宮の単語が多かったことから、瀬戸内寂聴は『子宮作家』と呼ばれバカにされた逸話あり。
『ウィキペディア日本語版』『ウィキペディア英語版』より抜粋。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,076
人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。
やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ、何よりの化粧品なのです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,077
人の話を聞く耳を持つ事は大事です。もし身の上相談を受けたら、一生懸命聞いてあげればいいのです。答えはいりません。ただ聞いてあげればいいのです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,078
人は所詮一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗します。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,079
人は、人を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない場合が多い。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,080
人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,081
独りでいる覚悟を決めている人は、誰かに期待しない分寂しくないわよ。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,082
病気は神さまの与えてくださった休暇だと思って、ありがたく休養するのが一番いい。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,083
夫婦の間でも、恋人の間でも、親子の間でも、常に心を真向きにして、
正面から相手をじっと見つめていれば、お互いの不満を口にする前に相手の気持ちがわかるはずです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,084
本当に苦しんでいる子どもに、いろんな理屈を言っても駄目。
まずは、子どもを抱きしめてやることが大切なんです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,085
みんなのために良かれと思ってやっていることを、冷たい目で見る人たちがいます。そういう人は『縁なき衆生』と思って放っておきましょう。あなたはあなたで正しいことを、自信を持ってすればいいのです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,086
無駄にだらしない生き方をするより、真剣に生きる方がたとえ短命でも値打ちはあります。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,087
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,088
世の中は大きな編み物である。編み物の目が次から次へとつながっているから、あたたかいマフラーになったりする。あなたは、その編み物の一目である。虫に食われたりしたら、上下左右たくさんの編み目に迷惑をかけてしまう。あなたは小さくても大切な一目なのだから。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,089
夜の熟睡を死んだように眠るとたとえるのは、適切な表現かもしれません。
人は夜、眠りの中に死んで、朝目を覚ます時は死から甦るのだと考えられるからです。
「日々これ新たなり」ですね。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,090
理解出来ないと投げ出す前に、理解しようと相手と同じレベルに立って感じる事を心掛けましょう。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,091
別れの辛さに馴れることは決してありません。
幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。
それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。
それが人間なのです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,092
私が一人で母を介護したという人は、それだけお母さんと縁(えん)が深かったということでしょう。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,093
私は『元気という病気です。』とよく言います。ある講演会の司会者が『瀬戸内さんの元気という病気が、ますます重症になるようにお祈りします。』と挨拶して、会場が爆笑の渦となりました。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,094
私は、全ての苦労を喜びに変えてからこなします。
それが一番の健康法と美容法です。ストレスがたまらなくなりますよ。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,095
私は自分の手で探り当て、自分の頭で考えて、納得したことでないと信じない。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,096
私は多く傷つき、多く苦しんだ人が好きです。
挫折感の深い人は、その分、愛の深い人になります。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,097
私は物心ついた時から職人の娘でした。
盆暮れしか休みが無いのが当然でしたから、人間は働くものだと思って育ちました。
これは無言のしつけだったのでしょう。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,098
私は、多く傷つき、多く苦しんだ人が大好きです。
挫折感の深い人は、その分愛の深い人になります。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,099
私たちの生きているこの世で起きることにはすべて原因がある、これが『因』です。起こった結果が『果』です。因果応報というように、必ず結果は来るのです。
瀬戸内寂聴の名言・格言集100プラスα!No,100
いつ死んでもいいと思っているんですよ。でも、すっと何かをしていたい。
病気をして一番いやだったのは何もできないことでした。